阪神・淡路大震災から今日で丸13年目となりました。
当時、私は20歳で成人式の次の日でした。
今は法律が変わって成人式の日が変わりましたが、当時は1月15日が成人の日でした。
がしかし、私の住む市だけその年の1月15日は市長選挙があったために、1月16日が成人式でした。
そして次の日の朝、あの大震災は起きました。
京都でもかなりの揺れでしたし、近くの薬局のショウウィンドウが割れていました。
まだその頃は親父も生きていましたが、揺れの激しさにおかあが慌てふためいて声を出していましたし、棚の上に置いてあった物が落ちてきてましたが、私は恥ずかしながら 『地震か、えらい激しいなあ。』 と寝ぼけまなこに思っただけでまた寝てました。
成人式に出席するために東京からわざわざ帰ってきていた元バンドのメンバーはバイトがあるので、成人式の次の日(1月17日)に新幹線で東京へ戻ると言っていましたが、震災の影響で新幹線もストップしてしまい、一週間ほど京都で足止めを食らったと後に言っていました。
その頃、ダンプの運転手をしていた私は普通に仕事に行って下水の工事現場へ行ったのですが、現場の重機のオペレーターが誤って水道管を破損してしまい、水道屋を呼んでいたのですが、大震災の影響で水道業者が全て神戸へ出向いたらしく、2・3時間ほど待たされて仕事にならなかったです。
よそのダンプ屋で同じダンプの運転手をしていた人間が後に言ってましたが、その人間は震災が起きた時は夜勤明けで家に帰ってる途中だったみたいで、エンジンの振動で揺れはわからなかったらしいですが、道路わきに立っていた電柱にはわせてある電線が全て長縄のようにグルングルンと回ってて異様な光景を目にしたと思ったら、その直後に周りの電気類が全てパッと消えてみんなパジャマ姿で外に出てきていたって言ってました。
当時、付き合っていた彼女は私と同じ市に住んでいた高校3年生のコで、卒業前したが学校は神戸まで始発に近い電車に乗って行っていたので、何かあったんではないかと心配で心配で家に電話を何度掛けても電話は全く繋がらなく、連絡が取れたのは次の日に彼女が公衆電話から私の携帯に電話をくれてだったと思います。
無事で何よりでしたが、もう少し震災が起きるのが遅ければ彼女は学校へ向かう電車の中で、何らかの被害にあっていたと言っていたのを憶えています。
震災当日の晩は確か、私の地域では一般家庭電話が全く繋がらず公衆電話だけが繋がっていたみたいでどこの公衆電話にも長蛇の列が出来ていましたが、13年前にも拘らず私はいちびって携帯電話をすでに持っていたので携帯同士では通話が出来たのを憶えています。
後に聞きましたがその彼女の高校でも何名かが震災の犠牲となって亡くなられたらしく、同じクラスの友達の机の上に花が花瓶に入れられて置いてあったそうです。
当時、倒産しかけていた建設会社が震災の影響で神戸へ出向き、持ち直したってのも聞いたことがあります。
解体業者はボロ儲けだったらしいですね?
震災から2ヵ月後位に一度だけ解体の仕事の為にダンプで西ノ宮まで行きましたが、遠くから見たら何ともない立派なビルが近くでよく見ると建物全体に修復しようもない亀裂が入ってたりしてましたし、
現場近くに着いて元請けの人間に
『そこの更地でちょっと待っといて』
とか言われてその更地に入ると、
更地の真ん中に花束が手向けてあって
「ここで人が死んでるんや・・・・・・」
と何か嫌な感じを受けたのを憶えていますし、
捨て場が確か西ノ宮の浜公園とかいう所でしたが、10t、4t、2tダンプが長蛇の列を作り、みんなが待ち並んでいたために一発ほかしに中に入るだけで半日かかり、中に入るとあちらこちらで解体のしばうを燃やしてあってそこらじゅうで火が燃え立っていましたし、風に舞った灰が凄くてもう浜公園はまさに地獄絵図のようでした。
『十年、一昔』
と言いますが、あれからもう13年も経ったんですね~、ほんと過去を振り返ると時間の経過の早さに驚かされます!
そして全く関係ない話ですが、
私が震災の時に付き合っていたコとはまた違いますが、
前の彼女にフラれたのも、確か6年前の今日!
普通ならこんなことなど憶えていませんが、
阪神・淡路大震災から7年目の日にフラれたので嫌でも覚えてしまってます
そんなくだらない話はさて置いて、阪神・淡路大震災で被害を受けられた方々に対して
私には何も出来ませんが、せめて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
私の震災に対する13年前の断片的な記憶に基づいて、今回のブログのカキコミをしたことをお詫び申し上げますが、
あの日のことを決して忘れずに後世へ伝えていく事が今を生きる私達の使命だと思います!
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